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おもしろ本棚 Ver.2 <よりみち篇>
「おも本」メンバーが、本・映画・ドラマなどなど、熱く思い入れを語る<よりみち篇>。
A.ヴァーンベーリ/著 小林高四郎 , 杉本正年/訳 『ペルシャ放浪記 ー托鉢僧に身をやつして』
ペルシア放浪記―托鉢僧に身をやつして (東洋文庫 (42))ペルシア放浪記―托鉢僧に身をやつして (東洋文庫 (42))
(1965/05)
A・ヴァーンベーリ

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★平凡社・東洋文庫 → こちら

よろず紀行文、特に100年以上前に書かれた古い旅行記というものは、どうしてこうもこちらの興味をそそるのだろう。

ついこの間、ジョージ・オーウェルが徘徊した1920年代のパリとロンドン、そしてシュリーマンが乗り込んだ1860年代の江戸をともにウロウロしたばかりだというのに、(昨年の今頃は、イザベラ・バードと共に馬に乗って1870年代の北海道を巡っていたっけ)今度は名前も聞いたことのないハンガリー人の口車に乗せられて、イスタンブールを出発してテヘラン、シーラーズ、サマルカンドといったペルシャ〜中央アジアを巡る隊商にくっついて、2年に及ぶ長い旅をしてしまった。
しかも、身分を隠し、垢にまみれた一介のイスラーム托鉢僧として。

●44ヨシモト mixi → コチラ
 

  
アールミーン・ヴァーンベーリは1832年に貧しいユダヤ系ハンガリー人の家庭に生まれた。
幼い頃から働きに出され、刻苦勉学の末、東洋学を修めんとオスマントルコの首府コンスタンチノープルに移り、ここで人生の土台となる人脈を築き上げる。
彼は早くから語学の才能を開花させ、すでにマジャール語、ロシア語、アラビア語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、セルビア語、英語、そして東西トルコ語やペルシャ語、その他もろもろの「オクザス河流域の日常口語」を自在に操り、各国の古典に通暁し、いつなりとも古典詩を暗唱できたらしい。
いやはや何ともハンガリー人的な、あまりにハンガリー人的な男ではないか!
かの国では、石を投げると天才に当たるに違いない。
(ただし、フェレンツェ・プシュカシュ以降のサッカー選手を除く。)

ヴァーンベーリは1864年、イスタンブルを立ち、東洋諸語の言語学的研究と、何よりも半アジア的マジャール人の血に駆り立てられて、黒海沿岸のトラブゾンを経由して中央アジアを巡る旅に出る。
この2年間の旅の記録が、『ペルシャ放浪記』"Meine Wanderungen und Erlebnisse in Persien(ペルシャでの放浪と経験)" だ。
1965年に和訳され、平凡社・東洋文庫に、深緑の布装丁にくるまれて収められている。


まずは目次をご覧ください。
一瞥して、おおっ!と感じた方は、すぐにでもタイムマシンの手配をなさることをお薦めします。
ヒートテックと、無限量の水の入る水筒のご用意をお忘れなく。
コーランを唱え、ハディースのいくつかがが引用できれば、なおよろしい。

ハンガリーの自由なる東洋学徒ヴァーンベーリが旅に出た頃は、まさに「グレート・ゲーム」――中央アジアの領土や資源をめぐる列強のスパイ攻防戦まっただ中の時代だった。
彼ははじめ「レシッド・エフェンディ」、つまりイスタンブルの身分ある紳士と名乗り、西洋服を身にまとってペルシャの地を目指した。
この頃のペルシャは(今もかもしれないが)、シーア派とスンニ派の対立がことごとしく、トルコ人=スンニ派は、紳士といえどもさほど歓迎されない。
そろそろ身の危険を感じ始めた彼は、次に乞食同然のダルヴィーシュ(イスラーム修行者)に姿を変えて旅を続ける。
もはや、ヨーロッパ人であることはおろか、都会のエフェンディであったことも隠し通さないと、命すら危険に さらされてしまう世界に足を踏み入れていたのだ。
隊商宿で、イスタンブル社交界で見知った人物に出会っても、もはや正体を名乗ることはできない。

得意の語学と教養で周囲をケムに巻きながら、行く先を同じくするキャラバンに同行し、イランの古都イスファハーン、"ジャムシードの玉座"ペルセポリス、シーラーズなどを廻り、いよいよ中央アジアの奥地、ヒヴァやサマルカンドに達する。
今でもその壮麗な美しさが称賛されるペルセポリスだが、彼が訪れた時代にも、やはり人々を魅了していたようだ。

「高くそびえる円柱を凝っと眺めたまま坐っていると、はるか西洋の土地からこの地にさまよい込んだ旅人である私に、無言ではあるが、しかし雄弁に東洋古代の驚異を語りかけるために、四千年もの遠い過去からよみがえってきた巨人の姿を思わせるものがあった。山々の背後から太陽が昇り、神技を示す円柱の頂きを金色に彩るまで、私は瞑想からさめなかった。そのうち、一瞬にして、あたかも巨大なカーテンが突然引き払われたかのように、まったく違った光景がまぶしく眼前に展開された。明るく輝く光の海に浮ぶペルセポリスだ。くすんでみえる大理石の塊や、黒ずんだ円柱、壁、それらのすべてが、まるで魔法にかかったかのように消え去って、その跡には金色の陽光の洪水があふれ輝き、右も左も精緻に彫刻された円柱の頭部の、不思議なほど美しい浮彫りが私を手招いたのである。それは、たったいま、最後の鑿を打つ音が消えたかのような自然で、しかも新鮮さがあった。」

その一方でヒヴァやボハラでは、多くの異教徒や西洋人を含む他国人が奴隷として囚われて文字通り鎖につながれ、絶望的な日々を送っているようすが報告される。
こうした実態は、数年前に読んだピーター・ホップカークの『ザ・グレート・ゲーム』にも詳しく書かれていた。
こうして気の毒にも歴史の裂け目に落ちていった人々というのは、意外に多いのだろうな。

ダルヴィーシュに身をやつしてからのヴァーンベーリの旅は、殊更に過酷を極めるものだった。
服の替えがあったとしても身の安全のために決して用いず、顔は1インチの厚さの塵と埃で汚れ、疑い深いシーア派の村では、ペンでちょっとしたメモをとることはおろか、村人に周辺の土地について質問することすら憚られた。
小さくても疑惑を持たれると、キャラヴァン全体が脅威とみなされ、命の危険にさらされるからだ。
また当然ながら、酷暑極寒、渇きや飢えといった、肉体的な危険も大きい。
さらに、シーラーズでは巨大地震に襲われ、パニックに陥った村から命からがら逃れるという経験もしている。
ヴァーンベーリ、危機一髪!

やがて過酷な旅を終え、ヴァーンベーリはオスマントルコ領を経てヨーロッパに帰還を果たす。
その安堵たるやいかばかりかと思いきや、2年間の旅は彼をすっかり変えてしまい、紳士としてのマナーや、ナイフとフォークを使った食事、いや定住生活そのものに、彼はくつろぎを見出すどころか、たちまち嫌気がさしてしまうのだった。
欧州に戻ってからの彼は、イスタンブル社交界でかき集めた何通もの紹介状を携えてロンドンへ向かい、異世界への興味深々たる英国社会の中で時代の寵児となった。
ひっきりなしの晩餐会に疲れると、次はパリへ向かうが、ここはロンドンと違い、人々は疑り深い視線を彼に注ぎ、スキャンダラスな評判が次々にたつ。(ために彼の著作はフランスで一番よく売れたようだ。)
この二都市の反応の違いは意外で、読んでいて実に興味深かった。
やがて彼は故郷のハンガリーへ戻り、主にドイツ語で幾冊かの書物をものし、家庭を持って、大学でゆるゆると教えながら、安定した余生を過ごすことになったのだった。


本書の解説には、彼は東洋の言語・歴史の研究に大きな寄与をしたが、せっかく前人未到の地に入っても、自然科学の教養や民族学的知識が欠如していため、この方面の業績は皆無と書いてある。
それはヴァーンベーリ当人もいさぎよく認めているらしい。
彼の仕事は、今となっては研究史的な価値しか持たなくなってしまった、ということだ。

しかし、それがどうだというのだ。
彼の著作は、100年後には極東の国に流れ着いて翻訳され、各地の図書館に散らばって、たまにこうしてやって来る気まぐれな読者の手に取られ、細々と読み継がれている。
鼻の頭を赤くして好々爺然としたアールミーン・ヴァーンベーリ、またの名レシッド・エフェンディが、小昏い図書館の奥の奥で、オッホン!と咳払いしてからやおら語り始める冒険譚に耳を澄まして聞き入ることこそが、物好きな本読みにとってはたまらない愉悦となる。
こうした忘れられた宝物が、東洋文庫にはいくつも入っているのだ。
本邦初版以来、再販の気配すらないが、何年かに一度、こうして物好きな読者の目を釘付けにするだけの魅力が、この書物には充分備わっていると思う。

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テーマ:書評 - ジャンル:小説・文学

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