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おもしろ本棚 Ver.2 <よりみち篇>
「おも本」メンバーが、本・映画・ドラマなどなど、熱く思い入れを語る<よりみち篇>。
『テヘランでロリータを読む』
テヘランでロリータを読むテヘランでロリータを読む
(2006/09)
アーザル ナフィーシー

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テヘランで「ロリータ」を読む。
こんなタイトルを聞いて、興味をひかれないわけがない。
しかし、本家本元の『ロリータ』を読む前にこの本に手を出すのも、ちょっとねぇ。

と、いうわけで、ウラディミール・ナボコフの『ロリータ』を読み終えて、ようやく本書を手に取った。
想像していたよりもずっと深刻で、問題意識に溢れた本だった。
そして、私個人にとっては、本読み生活の一つの結び目となるような本でもあった。



「焼き菓子に手をのばしながら、しばらく前から悩んでいることがあるとミートラーは言う。『ロリータ』や『ボヴァリー夫人』のような物語がーーこんなに悲しく悲劇的な物語がーー私たちを喜ばせるのはなぜかしら?こんなにひどい話を読んで喜びを感じるのは罪深いこと?同じことを新聞で読んでも、自分で経験しても、同じように感じるのかしら?このイラン・イスラーム共和国での私たちの生活について書いたら、読者は喜ぶかしら?」 (第一部 ロリータ)

「その日、教室を出るときには、自分でもようやくわかりかけてきたことについては黙っていた。それは私たちの運命がいかにギャツビーの運命に似てきたかということだった。彼は過去をやりなおすことで夢を実現しようとしたが、結局、過去は死に、現在はまやかしで、未来は存在しないことを知る。これは私たちの革命に似ていないだろうか?共同の過去の名のもとにやってきて、夢の名のもとに私たちの人生をめちゃめちゃにした革命に?」 (第二部 ギャツビー)

テヘラン生まれで現在60代の著者アーザル・ナフィーシーは、青春時代に西洋で教育を受け、1979年、革命直後のイランに帰国、大学で英米文学を教え始めた。
8年間続いたイラン・イラク戦争中もテヘランにとどまり、ヴェールの着用を拒否して大学を追われるといった経験を重ね、1997年ついにアメリカへ移住、ジョンズ・ホプキンズ大学高等国際問題研究大学院で教鞭をとった。
18年間のテヘラン在住期間の最後の2年は、大学を辞め、向学心に溢れるかつての教え子7名を選んで、週に一度、自宅で文学についてーー小説と現実の関係についてーー話し合うクラスを持った。

テキストとなったのは、『千夜一夜物語』、『高慢と偏見』、『デイジ・ミラー』、そしてペルシャの古典など。
7人の学生は、欧米での生活経験や、結婚・離婚、投獄などさまざまなバックグラウンドを持つものの、いずれもテヘランの知識階級にいる女性たちだ。
ホメイニーらによるイスラーム革命によってどんどん自分たちの人権が損なわれてゆく日々に傷つき鬱屈し、恋人や婚約者や家族にも失望し始めている。
そんな中で彼女たちは、このサロンで文学と真摯に向き合い、苦悩の中に希望を見いだそうとする。

「毎週木曜の朝になると、雨の日も晴れの日も、彼女たちは私の家にやってきた。毎回、着用を義務づけられたヴェールとコートを脱ぎ捨て、色彩がはじけるさまを見るたびに、私はショックを抑えられなかった。あの部屋に入って、学生たちが脱ぎ捨てるのは、スカーフとコートだけではなかった。しだいにひとりひとりの輪郭がはっきりしてきて、だれにもまねできないその人自身になる。窓から私の愛するアルボルズ山脈が見えるあの居間の、私たちの世界は、私たちが逃げこむ安らぎの場となり、自足した宇宙となり、そこでは黒いスカーフ姿のおどおどした顔があふれる、下の街の現実を嘲笑うことができた。」 (第一部 ロリータ)


革命下、戦時下、統制下のイランで読む、文学。
文学の持つ意味や役割について、いや、そもそも「文学」とは何かなどということを、私はこれまで真剣に考えたことがあっただろうか。
現在の私たちが文学を読む意味があるとしたら、それは何なのだろう。
今の私には、とてもまともな答えが見つからないのだ。

「どんなことがあっても、フィクションを現実の複製と見なすようなまねをして、フィクションを貶めてはならない。私たちがフィクションの中に求めるのは、現実でなくてむしろ真実があらわになる瞬間である」。とはいえ、仮に私自身の忠告に逆らって、イラン・イスラーム共和国における私たちの生活にぴったりくる小説を選ぶとしたら、それは『ミス・ブロウディの青春』でもなけれは『一九八四年』でさえなく、むしろナボコフの『断頭台への招待』か、いや、それ以上に『ロリータ』だろう。」

文学を読むこと。
遅まきながら、実に遅まきながら、これからはもう少し意識的に、このことについて考えていこうと思っている。
まずは「現実でなくてむしろ真実があらわになる瞬間」を探して、『ロリータ』を読みなおすことにしよう。

●白水社サイト 『テヘランでロリータを読む』

●44ヨシモト mixi → コチラ

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テーマ:書評 - ジャンル:小説・文学

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